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現在の加賀市、山中町、小松市の一部を含む旧大聖寺藩内には、十万石の城下町としての面影が点在しています。しかし、幾度かの災害や太平洋戦争などを経る間に、その町並みや文化遺産は減り続け、今ではごくわずかに残る程度となってしましました。
その貴重な歴史的景観を守り、整備することによって、住む人々に潤いを与えて次世代の子供たちが地域に誇りをもって暮らせるように、また地域が活性化するようにNPO法人歴町(れきまち)センター大聖寺が応援しています。

団体名 NPO法人歴町センター大聖寺
代表者 久藤豊治
連絡先 所在地 〒922-0811 石川県加賀市大聖寺南町ニ2-2
氏名 瀬戸 達
TEL 0761-73-0220
FAX 0761-73-0220
email daishoji@po5.nsk.ne.jp

国土交通省の景観まちづくり教育の中の 市民のための景観まちづくり読本の事例14として NPO法人歴町センター大聖寺の歩みが 「住民や NPO が牽引する歴史を活かしたまちづくり」として紹介されています。
【参考資料】
景観まちづくり教育(国土交通省)
市民のための景観まちづくり読本 (国土交通省)


大聖寺藩十万石の城下町

石川県の最南西に位置する加賀市は、かつては加賀百万石の支藩で、大聖寺十万石の城下町として栄えました。海や丘陵、河川等の自然とともに城下町、港町、宿場町などが存在し、まさに目本の縮図と言えます。その中でも大聖寺地区は、本市の行政の中心であります。
大聖寺が、城下町として形を整えてきたのは、一向一撲が平定された頃といわれます。秀吉の時代に溝口秀勝、続いて山口玄蕃宗永が城主となりましたが、1600年の関が原の戦いで前田利長に攻められて陥落、以降加賀藩前田の支配となりました。1639年に、加賀藩三代藩主利常が、三男利治に七万石を分与して大聖寺藩が興され、その後十万石となりました。
大聖寺地区内には、かつての城下町の町割が現代まで継承されており、江戸末期から明治期と思われる町屋が残っています。70余りあった町名は、明治以降もほとんど統合されずに残り、城下町ならではの風情が今も生き続けています。しかし、幾度かの水害や火災などを経る間に、その町並みや歴史的遺産は減少の一途をたどり、現存するのはごく僅かとなっています。

歴史的資産の再生へ始動

貴重な歴史的遺産が徐々に失われていくことに危機感を感じた大聖寺地区の住民が集まり、平成6年「大聖寺まちなみ景観整備委員会」(現NPO法人歴町センター大聖寺)が立ち上げられました。地元の歴史と町並みを見直してもらおうと、「第一回楽しく歩こう歴史街道」を開催したのが活動の始まりです。
  最初に着目したのは、北国街道でした。県内の北国街道は、加賀市橘町から富山県境の倶利伽羅峠まで約74キロあります。福井県境で旧街道の一部が消えている惨状を目の当たりにし、街道に石畳を敷いて、一里塚を再生することとしました。
  一里塚は、平成6年の「大坂一里塚」を皮切りに、敷地、国境、月津、八日市と同9年までの4年間で、5ケ所に再生しました。また、翌10年には、東京大学に「大聖寺藩上屋敷跡一里塚」を、大聖寺の実性院門前に「藩主の菩提寺一里塚」を設置しました。この2つの一里塚の設置にあたつてはユニークな企画を行いました。大聖寺藩主が参勤交代で通った中山道と東海道経由の2ルートの沿道自治体に、2枚の九谷焼絵皿を託してリレー方式で加賀市から東京まで運んだのです。そして、約一年の旅を経て、無事東京に到着した2枚を、東京と大聖寺に設置した碑にそれぞれ埋め込みました。

歴史的景観の保存へ

高い山を持たない大聖寺藩は、西南の丘陵地の麓に防衛線として、寺院を計画的に集めたとされています。それが山ノ下寺院群です。寺院群は、七つの寺院と一つの神杜からなり、歴代藩主の菩提寺で萩の名所の実性院や、芭蕉と曽良が逗留した全昌寺、桜まつりの行なわれる加賀神明宮などがあります。
  加賀市は、平成8年に「加賀市ふるさとの歴史景観を守り育てる条例」を公布しておりますが、山ノ下寺院群における町並み整備はこの頃から始まりました。山ノ下寺院群地区では、景観に配慮した整備内容が検討されましたが、議論は長引きました。ここで行政は「道づくりは行攻がするが、町並みづくりはそこに住む人たちの問題である」と発言されました。このことにより「主役はあくまでも住民」との認識のもと、検討が進められていったのです。
  ここで特徴的なのは、まちなみ景観整備委員会のメンバーなど、地元住民が中心となってまちづくり協議会を組織し・町並み整備に向けての約束事(歴史的景観整備基準)を自分たちで作成したこと。また、それを住民自らが地権者に説明するための質問回答書を作成し説得に回ったこと。さらに、出来上がった建築物等を協議会が検査するなど積極的な関わりを住民が果たしていることです。
  事前の建物調査の際に、コンサルに頼り切らないよう、会の一人が「コンサルは遅れて来い!」と言ったことからも、地元の熱意が伝わります。また道路整備では、全国の歴史的景観整備で多く用いられている石畳の案が出ました。しかし、住民が先進事例を視察しヒアリング等を行った結果、道路は脇役で人や町並みが主役であると考え、洗い出し風の脱色アスファノレトを採用し、路側部に地元産の滝ケ原石を施すこととしました。
  また市は、北前船主の館を移築し、観光客の休憩所や地域住民の憩いの場として「蘇梁館」を整備しました。館は、1841年(天保11年)に加賀市橋立町に建てられ、現存する北前船主の屋敷としては最大、最古級のものです。
  こうした活動が功を奏して、徐々にではありますが、寺院群に相応しい落ち着いた町並みが整いつつあります。
  また、景観整備にあたっては、市民の意識を高めることが肝要であり、加えて、次代を担う子供たちが地域を学び、大切に守っていくものは何かということを感じてもらうために、まちなみ景観整備委員会が中心となって、平成9年から毎年、まちなみ景観シンポジウムを行っています。
参加者は、市民を中心に、市内の高校生、中学生、小学生であり、建築士会や行政のサポートを得て開催しております。内容は、フィールドワークや調査の発表などを積極的に取り入れています。

生活の中からの歴史的風情の創出

平成10年には、山ノ下寺院群の一角の古民家を改修し、「時習庵」を整備しました。時習庵という名前は、大聖寺藩の藩校「時習館」にちなんだもので、翌年には国の登録有形文化財に登録されました。
  時習庵では、つるべでの井戸水のくみ上げ、スイトンや甘酒づくりなど、「昔」を体験することができます。また、地元の子供たちなどを対象とした邦楽教室「時習庵杜中」を設立し、ボランテイア講師により、琴、尺八、三味線、太鼓、民謡、詩吟などを無料で教え、年一回のおさらい会(発表会)を開催しております。
  歴史的な町の風情とは、こうした建物という器と、生活や習い事のような中身と、両方兼ね備えて初めて醸し出されるものであると考えます。

史跡あんないびと

平成11年には、大聖寺を訪れる人々にも地区の歴史や文化により深く触れてもらうため、大聖寺の観光ボランティアガイドが常駐する史跡案内所をオープンさせました。また、ボランテアガイドを育てるため「加賀江沼ふるさと史跡あんないびと養成講座」も開講しております。
  次に取り組みましたのが、通りに歴史的名称をつけることです。大聖寺は城下町の道がほぼそのまま残されているため複雑で、観光客からも「道が分かり難い」と不評でした。そこで、観光協会や地区の諸団体と協力して、「大聖寺愛称通り検討委員会」を設置しました。
平成11年から翌年にかけ、「十万石通り」や「玄蕃通り」など18の路線に愛称を付け、各路線に杉の輪切り看板を107箇所取り付けました。

NPO法人の設立

設立以来、継続的に多様な活動を行ってきたまちなみ景観整備委員会は、平成13年、特定非営利活動法人r歴町センター大聖寺」を設立しました。旧大聖寺藩内に僅かに残る歴史的景観を守り、整備することによって、人々に潤いを与え、地域の活性化を図るとともに、次世代を担う子どもたちが、地域に誇りをもって生きることができるよう、伝統ある遺産を継承することを目的としております。メンバーは、地元住民を中心に構成され、医師や郷土史家、教師、建築家など現在12名で、住民の目線で自らが楽しむことを基本に活動しております。